健常者には絶対わからない。躁転時の合理的な思考回路

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脳がフル回転してる感覚。謎の行動力。経験からあれは正常な思考回路だと説明します。

 

脳がフル回転し、行動力が増す。
2chのまとめ記事「糖質とかいう人間の闇」にこのような記述があります。

脳がフル回転している感覚の時の奇異に映る行動は、改めて考えてみても正常な合理的な思考回路であったのではないかという主張です。

この時の謎の行動力と揶揄される行動については、その部分を局所的に一部分切り取ったとするなら、異常行動でしかないと思います。

しかし、なぜその行動を起こしたのかについてまで遡って考察してみると、精神異常者というのはやはりあくまで健常者からみて異常だという認識でしかないのかという気がしてくるのです。

私の体験談を語る前に、行動に移るまでの段階に分けて、起こった現象や体験を説明します。

「知覚」「認知」「行動」の三段階のプロセスで見る躁転時の経験談

 

1.躁転時の「知覚」

「知覚」というのは、外の世界からの刺激、情報を得ることです。
なかでも判り易く、体感しやすい知覚は視覚かと思います。

双極性障害とはラフに言うと鬱を気分が低めとすると、躁では気分が高めで固定され、鬱と躁の間をいききする障害です。その躁転時の経験談で言いますと、鬱でみる世界から躁転して、一気に世界が変わったように見えました。

ちなみに、うつから見る世界というのは、灰色が代表的です。しかしいつも世界から色が消えるかというと、そうそうなく、うつが重度な時か初期段階でしょう。もしくは単純に灰色の世界に慣れてしまい知覚できないかです。
生彩を欠いた、コントラスト比が少ないようなそのように見える世界がうつから見る世界感です。

ところが、それがある日、ある時に突然、色艶やかな世界となるのです。

これは専門家ではないので、わかりませんが、瞳孔でも開いているのでしょうか?

2.躁転時の「認知」

視覚の変化により世界感があざやかに見えます。花が赤く、空が青い。
その感動をご存知でしょうか。
もちろん経験しないことにこしたことは無いですが。

「認知」というのは「知覚」で得た情報をどう捉えたかということです。
知覚の変化を認めたことから、それをどう捉えるかまでとなります。
ここで、世界がよりくっきり、はっきりと見えることにより、「視力が戻った」や「色彩が戻った」と当時の私は考えました。
「視力が戻った」や「色彩が戻った」ことにより鬱が治ったと考えて、勘違いしていました。
縋っていたという言い方もあります。

3.躁転時の「行動」

「行動」は外界への働きかけとなります。
「行動」で「視力が戻った」や「色彩が戻った」ことにより自分は治ったと、まわりの人たちに吹聴したりしました。また、実際に無気力な気分が低めの状態から気分が高めの状態へと変化している為、精力的に行動力が増します。

私の場合は、当ブログの直帰率が高くなるのを覚悟で申しますと、パワースポット巡りを行っていました。治ったと周りの人に吹聴してながらも、パワースポット(怖くなく悪影響の無い心霊スポット扱いでしたが)を巡っていたのは、潜在的に治っていないことを自覚していたのかもしれません。

興味深いですね。

さて、具体的には四カ所目のパワースポットでの出来事を語ろうと思います。四カ所でパワースポット巡りを終えているので巡ると言っていいかは謎ですが。
熊本県にある弊立神宮に向かい、第三次世界大戦が起きないようにと、第三次世界大戦を防ぐことを誓っていましたね。
いえ、別に愛国者ではないですし、愛国心も欠けてきてるので、ここは流して下さい。
とにかく奇異に映る行動ですし、理解しがたいものかと思われます。

そして、

この行動の部分だけ切り取っても何も理解も分析もできません。

 

奇妙な行動を起こした原因の脳内フローチャート

私は、この躁状態の行動の時、鬱のときの思考プロセスに抵抗する為の「未来との約束」という生きる為の機能が働いていると考えます。

そして、その機能を強化することにこの躁状態の行動の目的があるのです。
話は鬱状態の時に戻ります。

うつ状態における鬱回路とは、別の脳内回路の誕生

鬱の状態が進行することによって、死を促す脳内ニューロンプロセスが循環され、強化増幅していきます。これを鬱回路とします。

この鬱回路だけの話ではなく、よく考えたり使用する脳内の記憶や考え方というのは使えば使う程、強化されていきます。

ですので、鬱回路を脳内の伝達物質が行き来すれば行き来するほど、個体は死に向かいます。
そこで、負の脳内回路を迂回する形で、生きる為の生の脳内回路が緊急コース形成されるわけです。

これに関しては単なる神経可塑性ととらえています。間違ってもレジリエンスという死に対抗するための仮想の変数という毒にも薬にもならない学者の暇つぶしの定義とは関係ありません。

私の場合、在日朝鮮人による暴行により、精神障害を患い異性関係が消失したという経緯があります。
異性関係は負の感情を想起させる鬱回路に組み込まれてしまった為、生きる為に別の脳内回路を形成しなければならない、と脳は考えたのでしょう。
ですので、異性関係では生きるため脳内回路がコース形成できず、在日朝鮮人による暴行に着目し、それと相対する形で愛国者になる。国の為になることをする。
ということが、生きる目的として緊急コース形成されます。

また、非常に残念なことに実際に発言や行動がおかしい韓国人に出会うたびにその脳内の回路が強化、反復されていきます。
もし、尊敬できる韓国人に出会うことがあれば、脳内の回路が強化、反復が止まるものと推察できるのですが、私が関わった8人中7人がおかし(内心日本人を憎んでいるのかな?)な人でしたので、巡り合わせが悪いのかずいぶんと強化されてます。こういうと、韓国人嫌いのやつという偏見を受けますが、実は同族殺し傾向にある日本人の方が民族的には嫌いなので、この話題は掘り下げるのをやめましょう。
話を戻しますと、

双極性障害(躁鬱病)の躁状態と鬱状態は別個のものとして分けるのは間違っているのではないか? とも思えて来ます。
とするならば、

うつ状態、躁状態とするよりも、(生存の為の)雌伏期と(生存の為の)行動期と解釈する方が正しいのではないでしょうか?

雌伏期と行動期

(生存の為の)雌伏期とは、生き残る為の生存戦略を脳のプロセスとして定着させる時期のことと定義します。また(生存の為の)行動期とは、雌伏期の生存戦略を強化するための時期と定義します。

うつ状態とは常に一定ではなく、うつ状態の強い時、弱い時があるかと思います。
ある時、鬱の脳内回路が弱体化し、もしくはスイッチハブのように偶発的に、生きる為の生の脳内回路の緊急コースがバイパス(迂回路)として出来たとき、幹線たる鬱回路に取って代わると考えられます。その時、体が軽くなったり、鬱のような無気力状態から解放されるため、非常に精力的に活動的になります。この躁状態のときに、その生きる為の脳内の回路を増強すべく行動するのではないでしょうか。

まとめますと、

雌伏期(うつ状態)で生きる為の目的を無理矢理こしらえる。そして、行動期(躁状態)でその生きる為の目的を強化する為にその根拠となる行動を起こす。となります。

認知のゆがみの改善が自殺を促す可能性

行動期には生きる為の生の脳内回路の緊急コースをしっかりと形成・強化する為に、無意識が行動を促すという仮説が正しければ、非常に危惧すべき可能性が含まれます。
健常者から見たときの異常行動とは、被異常者の正常な思考回路と行動により生きる為の欠かせない活動である可能性があるからです。
精神医学では、異常行動を減らし、抑制することを治療として有効であると解釈しています。(論拠が載っている書籍の紹介はこちら)
健常者は自分たちが理解できないものとして、異常行動を矯正することを行います。
しかし、異常行動それ自体が、生存の為の一連の合理的な行動だったらどうなるでしょうか?

かりそめの生きる為の目的を破棄することが治療となってしまい、
その結果、健常者の治療が成功することとは、患者を自殺に追い込むことと同義なのではないかという疑問が生じます。

 

過去にも同じようなことがありました。

アメリカの多重人格者を自殺に追い込んだ治療

アメリカの臨床現場の話ですが、多重人格者のそれぞれの人格にAさん、Bさん、Cさんと名前を付けていたらしいです。
仮にBさんをまともな健常な人格だと決定して、それ以外のAさん、Cさんを消していきましょう、という治療方針をとりました。
(このエピソードが載っている書籍はこちら)
結果をいいますと患者さんは自殺してしまったようです。健常者からは異常で、異常だからこそ排除、抑制するという姿勢は非常に危険なのではないでしょうか??
現在まで、健常者の為に無害化することが治療方針としているように思いますが、
私は、いずれ労働市場の外へ排外される、無力化して薬物療法での経済循環の利益よりも、障害者を健常者に戻すことに傾注した方が経済効果があると思いますよ。
人口抑制することが根回しできまってるなら、この限りではないでしょうが。すみません、陰謀論方向には進みたくありませんが、日本の場合わざとやってんのかな? と邪推した方が納得いく出来事も少なくないですよね。

 

元精神障害者が精神障害者を援助できる可能性

いずれにしても治療に成功した場合、来談者中心療法を取り入れている日本において、通院しなくなったこと=その後自殺したとしても=治療なのです。
悪くなっても良くなっても成功。

そのように反論の余地がないもの科学哲学ではこういいます「疑似科学」と。
疑似科学と科学の哲学

そもそも臨床心理学の目的は患者の治療や有効な知見を見いだすことではないのをご存知でしょうか??
臨床心理学とは、精神異常者を観察分析し、健常者の利となる理論を構築する学問です。
これに関しては臨床心理学を学び始めて一番に驚いたことですね。

臨床心理学の前の名称、実験心理学の名前のほうが、名実ともに近くまだ誠実さを感じられます。

元精神障害者が精神障害者を援助できる可能性はあると思いますか?

これが主題の2chまとめ「統合失調症だけど臨床心理士になりたい」を読む

臨床心理学からでは無理でしょう。少なくとも私のスペックでは無理でした。京都大学の教育学部大学院の臨床心理学の過去問は確か15年程コピーできた気がします。ここ十年で異常なほど問題の質と量が低下しています。でも、それでも受かる気がしなかった。はじめてどうやって勉強したらいいかも判らなかった。そんな問題を普通に授業で習い、独習もしている寵児たちと学者というポストを巡って勝てますか?? 当事者研究というのは、学会で発表していくとするならば、要は誰からも文句を言われない実績と、役に立たないという感情を押し殺しながらも大量の知識を頭に詰め込み。さらに自身の抱える病気と闘いながら、資格をとり、実習を詰み、論文を発表しなければなりません。わたしは何とか臨床心理学を迂回しようとコミュニティ心理学という方向に目をつけました。しかし、臨床心理学すなわち心理職の図式から逃れることが出来ませんでした(というか志望した指導教授にお願いしたらもれなく付いてくる)。

当事者研究を行う上で、私が志したのは、元精神障害者と精神障害者の間にワンクッションを置くことです。元精神障害者を精神障害者として再生産しない為にこれは絶対条件です。その意味でのコミュニティ心理学。しかし、日本に輸入されたコミュニティ心理学はただのスクールカウンセラーを後押しする理論と化してました。経済学でもうすうす感じ取れたのですが、臨床心理学という学問分野は露骨に、始めにまず利権ありき、でした。

ーー仮に誰からも文句言われない立場になったとして。

では、当事者研究の研究法の最先端はどうなっているのでしょう? それは、発表する。そののち第三者に評価してもらうことだそうです。W.Wundtの内観法という、自身の心理状態を書き出す為の一定の手法から始まった当事者研究はなんと起源よりも退化してしまっています。唯一残された部分があるとしたら社会学においてありのままを記述するという観察法のエスノグラフィという手法があります。しかし、それも実績のある学者だからこそ、余生の暇つぶしに書いたような書籍が価値のあるものとして評価されているのではないかとしか思えません。たしかその代表的な書籍を要約すると、病気になったら友人が疎遠になったといった内容です。

結論から言うと、このブログという媒体、事例研究のクラウド化は、当事者研究の研究法の最先端です。まあ学会で閉鎖的に事例研究会か何かで情報共有はしていますでしょうが、ぶっちゃけ2ch.scの方が早い。そしてその事例から理論にと言えば聞こえはいいですが、当事者の内情にも入っていけない健常者風情が、何を想像して、その想像の上に理論をたてようとしてるのでしょうか? 控えめにいって砂上楼閣、直視するなら空中楼閣です。とは言え、当サイトは素晴らしい、とも言えません。当事者としてますが、正確には元です。私ももう健常者というくくりですかね。辛かったこととかもどかしかったこととか既に忘れて来ています。喉元過ぎればなんとやらで。早い話が、提供できる有益な情報というのは、私の10年間と3ヶ月分しかないのです。しかしながら、当事者、つまり精神障害と闘っている時期ならば、このようなサイト作りは不可能でした。

狂気のときには発見あれども、報告できず。正気になれば報告できども、想起できず。

どっちにしろ当事者研究者失格なんですよね。

結論から言えば、やはり当事者研究というのは現実として成り立たない非常に難しい机上の学問領域なのかもしれません。

poruaa

「未来との約束」についての具体的事例に関する記事はこちら「未来との約束。それでもあなたは生きようとする。」を読む

 

 

 

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