【ヘヴィーノベル投稿療法1】数字の機能からの分裂した自己への役割分担

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1.問題の発生源を考えたこと『数字の元型論』

背景をおさえることとは?

ヘヴィーノベル投稿療法を語るにおいて、なぜそれに到ったのかという背景を押さえなければならない。なぜ押さえなければならないかというと学問とは、ある学者が提唱する理論が、時代や、学説・学派に反するものとしてなどどういった立場から語られたということまで把握しなければならないからだ。しかしながら鳥羽田は学者でもなければ、権威なんて振りかざそうが誰にも影響しないので、問題はない。ではなぜ、背景を書き出さなければならないかというと、単なる便宜上の問題である。想起しながら書くことにおいて時系列というのは非常にありがたい。しかしながら、何故時系列に沿ってブログ記事をアップロードしなかったのかと聞かれると、非常に難しい。ブログ記事を書くこと自体に不慣れであったとか、ブログ記事の文体を模索していたとか、単純に誰も来ていないブログで何かを発信することに滑稽さや自嘲に近い感情を得ていたからかもしれない。また、ブログという媒体の特徴として時系列と相性が悪いと認知していたし、時系列のど真ん中から読まれたとしても問題ないなんて、ものすごい技術力か読ませる文章力が必要である。なぜこんなにも卑屈な出だしから入るかというとヘヴィーノベル投稿療法は単なるSEO対策として名付けており、ライトと反対のヘヴィーからの検索流入を期待しているのであって、中二病が続いているぎりぎり青年でもなければ、統合失調症の症状そのものと捉えられるのも非常に厭だからである。嫌いではなくうっとうしいの方の厭ね。少なくとも5年前の話ではあるので、世の中訴えるとか、もうそんな気力も熱意も消し炭となっている。消し炭の中から自らの人生を賭けた課金ガチャでSSRのフェニックス出ないかな? と思うことはあるが。

一行でまとめるなら、背景を押さえようとは単なるご都合でごめんねー、である。

問題意識、甘美な響き

大学生になり卒論というものに取りくんだ経験があるものなら、耳にタコができすぎて、おたふくソースを連想しだすかもしれない。問題意識、甘美な響きである。まあ自分も卒論を意識していた訳で、他聞に漏れず問題意識を持つことを楽しみ、あら探しという人格形成にデメリットしかない思考形成が強化されていました。そして、その時にふとよぎった考えに、支配されていくこととなりました。
すなわち、「問題とはどこから生じるのか?」という疑問と「問題とはどこからどこまでの範囲であるのか?」、「問題の構造それ自体をパターン化して分類ができるのであれば、問題の解答も自ずと最良な解答が分類でき、問題に対する議論が省力化可能ではないのか?」ということです。そこで人類におまけして普遍に限りなく近い概念に数字があるとして、数字の機能のどこからが問題となっていくかを考えておりました、が。経済学部っぽいのを書きたかったので、卒論は「ゲゼル・マネー」をテーマにしてました。

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まとめますと、問題意識を持った結果、問題意識を持つこと自体が問題を生み出しているのではないか? と邪推したことにあります。

問題が相対的なものであれば、問題の指摘は藪八取らず、わかりやすく言えば、旧民主党のお家芸ブーメラン戦術。相対的に下だ。問題だ。と言えばもっと上の奴からおまえも下だろ。みたいな。エレベーターでの2Fの移動は環境的にも効率的にも問題だ! と言えば、お年寄りや身体障害者からみれば何いってんだコイツ? みたいなものです。テキトーな例示ですが。ああ、馬鹿と言ってるやつがバーカって名言が一番わかりやすかったですね。

ただ問題意識を持つことは、今まで問題がなかった世界に、問題をもたらし、生じさせる意識でもあるということです。

最近でのアンチ王道J-RPGでは、魔王と勇者の世界で魔物は単純に悪。殺してもオッケーな世界によく問題意識を持ち込んでますね。たとえば旅立ちの村に魔物庇護団体がいて、「どうしてウサギを狩るんですかぁ?? スライムが実は人間と同じ消化器官をもった高等生物だということがわかって知的生物虐待反対!!」ってな感じで村からそもそも出られないとか。魔王を倒す前に、魔物愛護団体を殲滅して世論誘導しないといけないとか。そのようなたとえ話です。

では、問題って結局どの部分なのよって聞かれたら、
数字の「2」だと答えていました。

キャッチコピーは数字の「2」がすべて悪い。→数字の元型論

要約すると
数字の「0」「1」は問題がない。生じ得ない。
「2」から問題が生じて、以後だんだんと問題の極値(ピーク)は逓減していく。ような感じ。

ぶっちゃけ数字の元型論自体はどうでもいい。
では実際これがどうヘヴィーノベル投稿療法につながるのか?
という話に戻します。

私はこれを分裂した自己の投影先に使いました。
「1」はただ在るものとして。在って完結しているものとして。
「2」は矛盾を抱えている自己として。
「3」は志向性。「4」の安定に向かおうとしている自己として。

これ以上定義づけるのは縛り付けること、固定化することになるので言及を控えますが、この問題の発生源を考えたことと『数字の元型論』を追ったことは、ヘヴィーノベル投稿療法で自己をキャラクターに投影(キャスト)する時に、重要な概念となった意味では外せません。
ちなみに「0」はどこにでもなく、どこにでもあるものなので、世界。ヘヴィーノベルそれ自体となります。ストレンジ・ジャーニーでもいいかと。

また、三位一体について言えば、三者が一体化して一体になる「3」を代表とするキリスト教圏の価値観ではなく、三者がいて、その後ろに何か得体の知れない一体がいて、合わせて「4」者であるとするユングの考えに、賛同しています。ここでの例に沿うと多分、父は「1」、精霊が「2」、息子が「3」で画像上では、神となっている箇所が「4」ですね。ただ、個人的な経験から神とかよりも生存戦略とか、進化の道筋の方向性を決めていく何か、裏ボスのような、シンクロニシティはそっちの世界の普通の事象なんだろうなって感覚のするものな気がします。また、同一平面上で表すことにすごい違和感を感じるのですが、セフィロトの樹を真上から見るとこの感覚を具体的に示せれます。セフィロトの樹も4回降り終わってからアイオンから抜け出すという仏教の週末思想とまるっきり同じことなんでは?? と浅いながらも思わせてくれる魅力がありますよね!

おそらくものすごく文章がわかりにくいので後々リテイクします。

 

 

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