ということでね。今日は要素主義に絡めて、想起したことじゃんじゃん書いちゃうよと言うことでね。ブログ再開にあたって頭のおかしかった頃の文章を読み返して使えるものは再利用しようということで、読み返してたら頭おかしくなりそうで、翌日有給取得致しました。Cランク治療薬です。コンテンツ増えたらまた来てね。
じゃあお勉強をとすると、誰も読まない得しない。何より精神障害にほぼほぼ役に立たないということで流してね。心理学の誕生は……どうでもいいね。ドイツのライプチヒ大学云々知ったところで症状よくなるわけないね。まあヴント(Wundt,W)って人が目指した心理学は要素主義っていうらしくてね。そんなかでもデータの収集する方法として内観法を提唱したらしいんだ。その内観法の考え方は私たち障害者が自分の症例と向き合っていくうえで非常に大事になる考え方だと思うので、投稿ページ1つ使って文章ちまちま打っていこうと思う。え?構成?何それおいしいの? このサイトは無給でというより赤字で運営しております。文体をどうするのか、よくあるアフィリページみたいにPREP法で……とか考えたりで日数かけたりしましたが、結論→書けるのが正義ということで、だらだらこんな語り口調で打っていこうと思います。まあ、いいんだって要点とかまとめないで、障害で伏せってる時なんて、金はないけど時間だけは湯水のごとく湧いてくるんだから。本当は時間ないんだけどね……。まあ、本題戻ります。
内観法(もはや原型とどめていないアレンジ的なアレ)
内観法自体は、統制された環境下で自らの意識内容を観察し、報告する方法を指すらしいでーす。リンゴを見ると、リンゴが見えると報告するのではなく、赤い、丸い、固そうとかいった要素を分析的に知覚し、報告する。
これによって心理学が哲学から独立できると考えたらしいけれどもたたき台に上っただけ。まあ議論されるということはいいことでここから心理学が始まった、と。
で心理学は何かといえば、客観的なデータを収集し、それを明確な根拠として人間の心に関する理論を科学的に構築していく学問のことである。じゃあそれが、私たち精神障害者の何の役に立つのか!!ほぼほぼ役に立たないんじゃないんですかね?? 精神障害者が……。それも当ブログでの想定は後天的な精神障害者が役に立つのは主観的なデータの収集です。主観的なデータを積み重ね、分析し、理論を駆使し日常的な社会に溶け込んでいく。
学問ではそのままだと何も救えない。学問の知見もそういう傾向が一般人にありまーす、ふーんではなくて、そこから何を取捨選択し、自らの日常に生かし実践するのか、それが大事だと真面目口調で言います。その上で、1つの主観的体験を要素に分けて分析して対策して、実生活での被害を最小限にするってのは大事だと思うんです。
どんな風に対策するのか?それは人それぞれです(終わり)
まあ元も子もないんですが、そうなってくると思います。
なので1例。
自分は不安に思ったり、不安におもったりしてないときによく元カノの名前を叫びます。まあ普通の話し声ぐらいのサイズでですね。でもぶっちゃけどうにかしないと社会との折り合いが悪い。
不安に思ったりするときに呟きやすいのは抑うつ状態だったときに恋愛に依存することで、非常に精神的に不安定だった時期を乗り越えた、もとい乗り越えてしまったことが原因です。
なら、どうするか。不安をなくせばいい!! そんなディストピアな解決方法はとてもじゃないけどとりません。まあ、元カノの名前を呼んだり、愛してるなんて言い出した時には頓服薬代わりに使っているセントジョーンズワート飲む頃だなあと分かって便利と言えば便利ですが。
なので、どうするか何らかの脳内の刺激があって元カノの名前を叫ぶ。もう、叫ぶことはしかたないないんです。だったら縮めればいいんじゃないかと考えました。なので職場で「なっ」とかま「まっ」とかよく言ってます。メイドインアビスのマアアさんです。
最初は全部言ってましたよ、でも努力と根性で短くしようと思えば、結構できます。全部できると言えないのが悲しいですが、なんで職場ではなるべく発しても一文字で済ましています。あと逆に叫びたくて叫びたくてしょうがない衝動が渦巻いている時があります。そんな時どうするか……自分の場合よくパチンコ屋でキチゲ発散します。あの場所はなんか叫んでても誰も気に留めませんもんね。カラオケもいいと思いますが手軽に入れるところではありません。社会復帰してキチゲ(基地外ゲージ)を発散したい時はパチンコ屋マジでおすすめです。まあ職場で言ってしまった時は仕方ないのであとにとれる手段は開き直る、何もなかったようにする一択です。
とまあ自分の自覚する病状、病識、実害を、要素に着目して一つ一つ努力して対処する。それが必要と思います。精神病は休養。努力したらいけないなんて嘘がまかり通ってますが、病気に対抗する為の努力、頑張りはすることです。
努力の方向が自分自身の健康の方向に向かっていれば全力をもって頑張るべきです。大体努力したらいけないという言葉でどんだけ障害者が傷つくか知っているんですかね??(まあ自分の場合は傷ついたんですけど)
要素主義の批判
ちなみにたたき台にあげられて心理学が発展してくらしいんですが(どうでもいいよね)この内観法の客観性は疑わしい。この手元の本には第三者からの報告の虚偽・誇張を確かめる術はなく、真実である証拠はないからだ……。と偉そうに申してます。所詮その程度です心理学は。
なんで本人が自らの思っていることを伝えられないことや、自分の意図していることと真逆の発言をしてしまって苦しんでいることは取り上げない??
しかーしここでいう心理学の被験者は一般人を想定している時期だから、問題ナッシングれ、ただ臨床心理学は本当に糞だ。臨床心理学はあくまで頭のおかしい人のデータとって健常者の役に立てようっていう腐った学問なので、正直なところ精神障害者の味方ではない。(主観ですが、臨床心理学の定義に明言されて愕然とした記憶もあります。)
つーか、本当に精神障害者のことを思っている人や団体、権力者がいるのなら、自分の病状を伝えられないのに対応する方策のハードルを下げてあげればいいのにね。経過観察を400字以内の文面で可にするとか、仕組みがあれば心理障壁さがるのにな……。まあ誰も助けてくれない。自分に合った薬を飲むこと以外は。だけどできることはあるし、そこをしないのは本当に甘えだと思う。とりあえずは精神障害者は努力したらいけないみたいな、言葉の呪縛はさっさと解くべきだと思う。時間がない……というか時間は解決してくれません。
meta description用のまとめ
心理学の起こりはヴントでありそれは要素主義と呼ばれる。客観的データは内観法で集められるとしたが、様々な議論を巻き起こした。精神障害者は主観的な情報こそが大事で、それぞれが抱える問題点を要素主義のように分割して分析し、努力していかなければ実社会と折り合いがつかない。内観法の欠点は往診にも言えていて、解決策は提示されることはない。